大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京地方裁判所 平成7年(合わ)401号 判決 1996年3月28日

主文

被告人を懲役三年に処する。

未決勾留日数中八〇日を右刑に算入する。

この裁判確定の日から五年間右刑の執行を猶予する。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は、スナックに勤務する妻A子(一九六三年一月一二日生)が特定の客と親しい交際をしていた上、平成七年一〇月中旬ころ、離婚話を持ちかけられ、その後、翻意を促したが応じてもらえなかったため、右客に対し、強い嫉妬心を抱くとともに、同女が別居する準備をしているのではないかと非常に不安感を抱いていた。

被告人は、平成七年一一月一日、右不安を確認するため銀行でA子名義の預金口座の残高を調べたが、預金通帳の記載等を見誤って、同女が別居準備のため右預金口座から多額の現金を引き下ろすなどしたものと誤信して、同女に裏切られたと考え激高した。被告人は、その後、東京都新宿区《番地略》甲野ビル五一〇号室被告人方居室に戻り、遅くとも同日午前九時一〇分ころまでに同女を殺害しようと決意し、そのころ、同所において、就寝中の同女に対して、同所にあった折りたたみナイフ(刃体の長さ約一〇センチメートル)で、同女の左胸部を三、四回位突き刺すなどしたが、出血を見て驚愕するとともに、大変なことをしてしまったと悔悟して、自己の意思により、直ちに一一九番通報を試み、これが通じないとみるや、直ちに一一〇番通報し、その後再度一一九番通報して救助を依頼し、医師らをして速やかに救命措置を講じさせたため、同女に全治約一カ月を要する左胸部刺創等の傷害を負わせたにとどまり、殺害の目的を遂げなかった。

(証拠の標目)《略》

(事実認定の補足説明)

一  <1>検察官は、被告人は確定的殺意を有していた旨主張するのに対し、弁護人は、被告人は未必的な殺意を有していたにとどまる旨主張し、<2>弁護人は、被告人は本件犯行後、妻の流血を見て我に返り、大変なことをしてしまったと深く反省し、一一〇番及び一一九番通報し、現場に臨場した警察官に対し自己の犯行を自供した点を指摘し、本件は自首にあたり、減軽されるべきであると主張しているので、以下検討する。

また、裁判所は、後述のとおり、右弁護人の自首減軽を求める主張の前提事実から中止未遂の成立を認めたので、以下その理由も併せて説明する。

二  殺意について

1  本件犯行状況等について、被告人と被害者A子の供述は食い違っているので、以下両供述の信用性を比較検討する。

(一) 両供述の概要

被害者A子は、就寝中、首に何かが当たる衝撃を感じるとともに、「ウーサーターノ(上海語で「おまえを殺す」の意)」との声が聞こえたので目を覚ますと、被告人はナイフを振り下ろしてきたので、とっさにかばおうとして右手を出したところ、ナイフが右手掌に当たり切られた、その後、被告人は「お金を確認したら残高がゼロになっている。あなたはどこに下ろした。裏切り者。」などと怒鳴って左胸をナイフで思いっきり何回か刺して来た、うち一回はナイフがまだ刺さった状態のときに、ナイフを回転させて中でゴリっというような音がしたような感じがした旨供述している(甲五。甲四も同旨。)。

他方、被告人は、捜査及び公判において、右被害者供述との相違点として、<1>まず最初に、就寝中のA子を起こし、通帳等を示して「銀行のお金をどこに移した。」などと聞くなど、預金関係の確認をしようとした、<2>その後、A子が被告人の右質問に対し、「知らない。」などと答えたためかっとなり、A子の上半身を引き起こし「金はどうしたんだ。裏切り者。」などといって、A子の両肩に手をかけたままその体を揺すったところ、同女が被告人の腹部を蹴るなどして暴れたため、さらにかっとなり六畳間の机の上にあったナイフを見て、咄嗟にこれをつかんだのであり、ナイフはA子を起こした当初から持っていたものではない、<3>A子が首の後ろや右手掌に切創を負った経緯については分からない、<4>本件攻撃の際、Aに対して、「ウーサーターノ」とは言っていない、<5>A子の胸を刺した際にえぐったことは覚えていないが、多分していないと思う旨供述している。

(二) 信用性の検討

そこで、両供述の信用性を検討すると、A子の供述中、首に何らかの衝撃を感じ、さらに被告人からの攻撃を右手で防御しようとした際、右手掌を負傷した旨の供述部分は、A子の頚部、右手掌部等に、被告人のナイフによってできたと認められる切創が存在していて(甲八)客観的に裏付けられていること、A子の供述中、右胸部の刺創のうち一回はナイフがまだ刺さった状態のときに、ナイフを中で回転させ中でゴリっというような音がしたような感じがしたという部分は、A子の左胸部に一個の創口から二度刺したことによって生じた刺創があることに符合すること(甲八)、A子の供述は、突然被告人から襲われた者の供述として記憶も鮮明で、具体性、迫真性があり、かつ、一貫している上、特に虚偽の供述をする理由もないことからすれば、A子の供述は信用性が高い。

これに対し、被告人の供述は、A子の頚部、右手掌部等の切創の原因につき、合理的に説明できていないこと、被告人は、捜査当初はA子も布団から立ち上がり、両者で殴り合いの取っ組み合いとなり、とっさにナイフでA子の左胸を刺した旨供述していたのが(乙二)、その後、被告人は、布団から上半身を起こした状態のA子と組み合い、A子から顔を殴られたり、腹を蹴られたりした後、六畳間机の上からナイフを取って、A子の左胸を刺した(乙三、甲二〇の被告人の犯行再現。)旨の供述に変わっていて、被告人の供述は、本件攻撃時の二人の位置関係、姿勢等の重要な供述部分につき変遷があること、被告人の供述中、被告人がA子ともみ合った後、若干離れた位置にある六畳間机の上のナイフを取り、その間、被害者が上半身を起こしたままじっと座っていたというのは不自然であることなどからすると、被告人の供述は信用性が低いといえる。

したがって、本件犯行直前の状況及び犯行態様については、信用性の高いA子の供述とそれに符合する関係証拠に従い、被告人は、当初からナイフを手に持っていて、就寝中のA子の頚部等に攻撃を加えるとともに、これを払おうとしたA子の右手掌に切創の傷害を負わせるとともに、「ウーサーターノ」と言って、A子の左胸をナイフで数回刺し、うち一回は刺したままの状態で刃を動かしたものと認める。

2  殺意について

以上認定したとおり、被告人は、就寝中の被害者に対し、いきなりナイフで攻撃していること、その際、A子に対して「ウーサーターノ」と言って殺意を表明していることの外、本件犯行態様は、A子の左胸部を、刃体の長さ約一〇センチメートルのナイフで、連続的に三回か四回刺すなどし、左胸部の傷のうち三箇所は深さ約一〇センチメートルに達していることから相当力を込めて刺していると考えられることなどからすれば、被告人に確定的殺意があったことが優に認められる。

三  中止未遂の成否について

以下、本件で問題となる成立要件を検討する。

1  中止の任意性について

本件で、被告人は、A子の多量の出血を見て、驚愕すると同時に大変なことをした、あるいは、妻に悪いことをしたと思って、一一九番及び一一〇番通報をし、救助を依頼するなどしているところ、通常人が本件のような出血を見て、被告人と同様の中止行為に出るとは限らないから、右結果発生防止行為は被告人の任意な意思に基づくものといえる。

2  結果発生防止行為について

本件は、実行行為の終了時にその犯行を止めたいわゆる実行中止の事案であるから、積極的に死の結果発生を防止する行為に出る必要がある。

これを本件についてみると、被害者の左胸部の傷のうち二箇所は左肺上葉部に達していて出血がひどく迅速に病院へ搬送して医師による迅速適切な治療を受けさせない限りは死の結果が発生してしまったものと考えられるから、被告人の行った一一九番及び一一〇番通報は、犯行後において、被告人が結果発生防止のためにとり得る最も適切な措置であったということができる。また、被告人自身は、A子に対して止血措置を取るなどの行為には何ら出ていないものの、本件犯行後約数分の間に、まず、一一九番通報を試みたが通じず、次に直ちに一一〇番通報し、その後、再度一一九番通報し、右通報中に警察官が到着し、警察官が被告人に質問している最中に救急隊員が到着したというものであって、被告人は、死の結果発生を防止すべく出来るだけ早く電話をかけようと努力していて、他の止血措置等を取る時間的余裕はほとんどなかったものというべきである。

したがって、右被告人の行為は、自ら結果の発生を積極的に阻止する行為に出たと同視し得る真摯な努力を払ったものということができる。

3  したがって、被告人には中止未遂が成立する。

四  自首の成否について

被告人は、本件犯行直後に自ら一一〇番通報し、犯行現場で警察官の到着を待ち、臨場した警察官にテーブルの上にあった血のついたナイフを発見され、「どうしたんだ。」と問いただされ、「刺したよ。」と答え、警察官に対し、自己の犯罪を申告し素直に逮捕に応じていることが認められることからすれば、被告人には自首が成立する。

(法令の適用)

被告人の判示所為は、刑法二〇三条、一九九条に該当するところ、所定刑中有期懲役刑を選択し、右は中止未遂であるから、同法四三条ただし書、六八条三号により法律上の減軽をした刑期の範囲内で被告人を懲役三年に処し、同法二一条を適用して未決勾留日数中八〇日を右刑に算入することとし、情状により同法二五条一項を適用してこの裁判確定の日から五年間右刑の執行を猶予し、訴訟費用は刑事訴訟法一八一条一項ただし書を適用して被告人に負担させないこととする。

(量刑の理由)

本件は、スナックに勤務する妻が特定の客と親しく交際していた上、離婚話を持ちかけるなどし、嫉妬心や不安感を抱いた被告人が被害者は預金を引き下ろしていないのに、別居準備のため被害者名義の銀行預金を引き下ろしたと軽信し、裏切られたとの思いから殺害することを決意し、就寝中で無防備の被害者に対し、「殺す」と言って、刃体の長さ約一〇センチメートルのナイフで力を込めて左胸部を三、四回連続的に突き刺すなどしたというもので、その犯行動機は甚だしく短絡的で酌量の余地はなく、犯行態様をみても、危険かつ執拗なもので悪質である。その結果は、心臓をわずかに外れるなどして生命は助かったものの、全治約一か月の傷害という相当に重いものであり、被害者が被告人を絶対許すことができないと供述するのももっともであるといえる。

以上からすれば、被告人の刑事責任は重い。

しかしながら、本件は、被告人には、妻の出血に驚愕するとともに自己の行為を悔悟して一一〇番及び一一九番通報して医師らをして救命措置をとらせて被害者に死の結果を発生させなかったという中止未遂と、右一一〇番に基づいて臨場した警察官に自己の犯罪を申告して素直に逮捕に応じたという自首の成立が認められる事案であり、さらに被告人は妻から、離婚話を持ち出されて妻が別居の準備をしているのではないかと不安感等を抱いていて、本件犯行当日朝、右不安を確かめるため預金口座の残高照会等をした際に、被害者が密かに預金を引き下ろして別居の準備を進めているものと誤信し、嫉妬心等から居間のテーブルの上に置いてあったナイフを使って本件犯行に及んだものであり、本件以前には妻に暴力を振るったことはないことも考えるとその犯行は機会的・突発的であること、被告人と被害者との示談の成立は困難ではあるものの、治療費約三〇〇万円を負担するなど、一応その努力をしていること、被告人には、前科前歴がなく、また、本件犯行を反省していることなど被告人に有利な事情も認められることを総合考慮すると、今回に限り被告人には主文のとおりの刑を科した上、その刑の執行を猶予するのが相当であると判断した。

(裁判長裁判官 河村潤治 裁判官 多見谷寿郎 裁判官 田口治美)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例